日生ノ木日

私の全て。これは私がこの世に存在した証。

隣のベッド

どうせ聞こえやしないのに起きやしないのに

誰も気付きやしないのに

わざと大きく啜り上げて涙を流す

わかってもらいたくて

慰めてもらいたくて

期待するだけ無駄だなんて

今まで何回も何回も失敗したはずなのに

また同じ失敗を繰り返した

 

ただわかってもらいたかっただけだった

かわいいとか好きとか一言言ってくれればよかった

その一言に私がどれだけ救われるか

たかが一言

それでも私にとっては

きっと自分の存在意義を認めるために

ここにいていいと思えるために

大切な言葉だった

言葉があっても行動が伴わないより

言葉がなくて行動が伴ってる方がいいのかもしれない

でも私単純でバカだからさ

口先だけでも嬉しいんだよ

 

私が悪いと思う

期待した私が悪い

私にそんなこと言ってもらえる資格はないし

あなたが行動で示してくれる人なのは知ってる

でも心のうちはわからないよ

私同じ人間じゃないし

なんだかあなたが何も言えないことが

そのまま

私の要領が悪くて

やり方が悪くて

生き方が悪くて

だから可愛くないし愛されないと拒絶されてしまったようで

孤独を感じてしまった

悲しかった

 

あーあ

今日買った高いアイクリームが涙で流れてく

少しでも周りの人よりも肌を綺麗に

自分の好きな自分でいられるように

義務感に駆られて買ったクリーム

そんなの意味ないよって言われてるみたい

苦しんで努力してもいつも意味ないよって

おまえの人生には何の意味があるの?って

 

いつもバカみたいに頑張って

見えない何かのためにさ

やり方もわからずがむしゃらにやって

私の人生に意味はないって言われてるみたいだよ

 

私、自分を認めてあげたいんだよ

毎日頑張って仕事では成果も出して

お弁当も作って

サプリや化粧品にも気を遣って

毎週ジム行って体づくりして

世間では当たり前なのかもしれないけど

私は頑張ってるって思いたいの

誰よりもとは言わないけど

自分のできる範囲でさ

 

そんな全部うまくいくわけないじゃん

わかってるよ下手くそなのなんてそんなの

散る桜

散る桜 残る桜も 散る桜

 

おばあちゃんのお通夜で聞いた歌。

儚く散っていく命も

今咲き誇っている命も

いつかは同じように散る定めという意味らしい。

とっても悲しい歌。

 

おばあちゃんは、自分勝手な人だった。

私たち家族が愛知に行くと、

いつもずっと座ってテレビを見たり、何かとちょっかいをかけてくるおじいちゃんと喧嘩してた。

母の作る料理に味が濃い薄いと文句を言い、私の教育がなっていないとぶつぶつ言っていた。

時には母が泣き、父が母を庇い、怒って喧嘩して帰ったこともあった。

私はいつもおばあちゃんの機嫌を伺って、親と喧嘩しないように気を遣っていた。(つもり)

だから、おばあちゃんちに行くのは正直あんまり好きじゃなかった。

 

でも、楽しい思い出もたくさんある。

おばあちゃんは、太陽みたいに明るく笑う人だった。

私がくだらないことを言うと、大きな声をあげて笑ってた。

おじいちゃんといつも喧嘩してたけど、いつもどこか楽しそうだった。

おじいちゃんはおばあちゃんのことが大好きで、うざったがりながらも、少し嬉しそうだった。

歌を歌うのが好きで、愛知に行くとみんなでカラオケに行くのがいつも楽しみだった。

 

きっと私が知らないところもたくさんあったんだと思う。

私が知ってるのはほんの一部でしかない。

けど、私にとってのおばあちゃんはそんな存在だった。

すごく自分勝手でわがまま。

でも、自分を貫く意志の強い人。

笑顔でみんなを明るくできる人。

 

おじいちゃんは、おばあちゃんが死んだことをまだ知らない。

何が正しいのかはわからない。

おじいちゃんは愛する人の死に目に会えず、この世にいないことすらも知らない。

 

二人は当時では珍しい恋愛結婚だったらしい。

4年も交際して、結婚に至ったんだって。

二人が仲が良かったことを知ってるから、その目で、側で見送ることができたらと思ってしまう。

いつもみたいに、なにやってんだ、なんで死んじまったんだよ、とか軽口を叩きながら、側にいてほしかった。

きっとおばあちゃんだってそう。(ウザいからいらない、とか言いそうだけど)

 

でもそんなのは綺麗事だ。

ここで変に伝えて、おじいちゃんが弱ってしまうのは困るし、悲しむところだって見たくない。

それは私たちのエゴなのかもしれないけど。

 

おばあちゃんも、おじいちゃんも、私たちも、同じ散る桜だ。

おばあちゃんがつい最近まで元気だったように、

いつ誰がどうなるかなんて、誰にもわからないものなんだろう。

何が正解かもわからないし、世の中なんてうまくいかないことだらけだけど、それでも、なんとか自分が信じることをやっていかないといけない。

 

親が二人とも大変な思いをしてるのは知ってる。

二人とも全然完璧じゃない。

足りないことだらけで、世間的には胸を張れないような部分だってたくさんある。

それでも私は悲しい時でもいつも笑顔で冗談を言い合うあの二人が好きだし、

今回のことも支え合っていけると思う。

私は、二人が正しいと思うなら、それに従う。

私はそれが正しいと思うから。

二人を信じてるから。

 

いつかは散る桜だって、

桜は桜らしく

咲いてるうちは美しく咲き誇っていたいものだろう。

残されたものは、生きるしかないから。

思うことはたくさんあるけど、また明日も生きていかなきゃ。

 

今だけは、散る桜へ想いを馳せて。

挫折

私の人生、成し遂げられず失敗したことばかりだ。

 

中学生。

校内の選考で選ばれて、学校代表で駅伝大会に出場することになる。

一年、二年までは良かったが、三年で一区を走った時、緊張と実力不足で大失敗。ビリに近い順位で帰るという失態を犯した。

そして、泣きながら懺悔、高校では陸上部に入って必ずリベンジすると宣言した。

 

高校生。

宣言通り、中学から憧れていた多摩高校の陸上部に入った。中学三年からすでに見学に行くほどの熱意で、部活目的で入学したまであった。

が、キツイ練習についていけず、学年一人という孤独にも耐えられず、そして勉強との両立もできなくなり、それを言い訳に逃げた。一ヶ月で、辞めた。

部活が全てのような学校で、私の立場はなかった。友達はできたけど、私の青春には大きな穴が空いたように感じた。

 

大学生。

高校で自分の生きる意味を模索した末、大学で行動心理学を学びたいと思った。

三年生から死ぬ気で勉強に励んで学力や成績はかなり上がったが、所詮地頭が良くなかった。

行きたかった大学には受からず、受験勉強の末嫌いになってしまった「国語」を学ぶ国文学専攻の大学へ、皮肉にも行くことになった。偏差値が高かったから。

 

専門学校。

大学在学中に、自分の本当にやりたかったことを考えた。誰かに影響を与えられる音楽を作りたい、音楽を本気でやってみたいと思った。

大好きなことを一日中学び練習できる、最高な体験だった。だけど、自分の過去と向き合った歌を作ろうとして音楽が嫌いになりかけてしまって、音楽を仕事にしてはいけないと思った。自分の心の拠り所を失いたくなかった。

 

私は、弱い。

いつも挫折の連続。

脆くて飽き性で、全てのことを成し遂げられない。

いや、ただ挑戦するのが怖いだけなのかもしれない。

これ以上傷付きたくなくて、もっと頑張れば成し遂げられるかもしれないのに、いつも逃げている。

行き当たりばったりで適当に生きてきて、

中途半端にやろうとした結果が、これだ。

 

私って、何のために生きているんだろう。

逃げ続けることしかできない、価値のない人間のように思えてくる。

環境のせいには出来ない。

全て、私の勇気と自信が足りず、よくわからないプライドを捨てられなかった結果なのだと思う。

 

今、仕事も辞めて、全てをリセットして、

やりたいことを死ぬ気でやったら、

何か変わるだろうか。

また挫折して、失敗するのか。

 

 

私は 怖い。

もう自分が信用出来ない。

承認欲求

承認欲求はなぜ起こるのか。

それは、自分に自信がないから、自分で自分を認められないからだと思う。

他人基準でしか、自分の価値を決められない。

誰かに認めてもらうことでしか、自分をこの世に存在していいものだと思えない。

 

自分が「誰かから認められたい」と感じる時、

自分が一番自分を認めてないんだ。

自分の判断に納得できないから、他を頼る。

最近はそれがわかって、自己肯定感を上げるこももできて、承認欲求が治った、と思ってた。

また、再発してきてる。

 

誰でもいいから、存在を認めてほしい。

私のことを、好きになってほしい。仕事ができる人だと認めてほしい。ピアノが上手いと感じてほしい。少しでもかわいいと思ってほしい。

一度自信が揺らぐと、私の価値基準は壊れる。

私が私を認められない。

そこをどうにかしないといけないとは頭ではわかってるんだけど、誰かに縋りたくなる。

 

そんな時、一番側にいる人に頼れない。

彼氏は確かに、何でもかんでも肯定してくれるようなタイプではない。

それでも、不安を与えず長い時間を共に過ごして、意見が違う時も話し合いをして、静かに行動で示し愛を伝えてきてくれた。

そのおかげで私の自己肯定感も回復して、承認欲求も治ってた。少し前までは。

 

だからきっとこれは、高望みなんだと思う。

幸せに慣れ過ぎた私への罰なんだと思う。

 

一言、頑張ったねとか、すごいとか、かわいいとか、言ってくれるだけでいいのに。

わたし、あなたといても、もう自分が好きになれないや。

 

少し前から思ってた。

私にとって嬉しいことや悲しいことを共有できない。

 

私は仕事が嫌い。でも、やるからには全力でやりたい。

だから、どんなに成果が認められなくても、自分なりに頑張ってきた。

スタッフさんに、「定年まで一緒に働きたい」と言ってもらえたこと。

売上やお店の嬉しい口コミを、私が積み重ねたもののおかげ、といろんな仲間に言ってもらえたこと。

みんなで同じ方向を目指して頑張れてること。

私を慕ってくれる後輩が2人もできて、気兼ねなく話せる大切な関係性になれたこと。

お世辞かもしれないし、何気ない言葉だったかもしれない。

けど私にとってはすごく嬉しくて、それをただ共有したかった。

それだけだったんだよ。

 

私の努力は無意味かもしれない。

あなたには、理解できないかもしれない。

でも、ただ嬉しかったという感情を共有して、わかってもらいたかったんだ。

 

誰でもいいから、認めてほしい。

愛してほしい。

承認欲求の海に溺れる私を、助けてほしい。

負けず嫌い

私は、負けず嫌いだ。

自分よりも技術や能力がある人、容姿が優れている人、努力ができる人、環境や周りに恵まれている人、全てが羨ましい。

そんな自分が、ずっと嫌だった。

好きなことでもどうでもいいことでも、何かあるたびに人を羨んでしまう。

そう思わないように、素直にすごいと認められるように、自分の性格を押し込め、変えようと試みてきた。

でも、無理だった。

羨ましい気持ちを抱くたびに自己嫌悪に陥って、

自分は他の人の実力や成功、幸せを素直に応援できない嫌なヤツなんだと思い知らされた。

それでも、そんな自分に対抗したくて、せめて側から見たら素直に受け入れられるような人になりたくて、

嫌な感情は決して出さないように、努めて自然なトーンと笑顔で、「すごいじゃん!」と言うようにした。

ちゃんと、うまく出来てるかわからないけど。

 

私はきっと、これからも他の人を羨ましいと思う気持ちは止められない。

素直に応援出来なかったり、喜べないこともたくさんあると思う。

それでも、良い自分でいようとしている。

相手がどう感じてるか本当のところはわからないけど、

少なくとも側から見れば、人の幸せを素直に喜べる私になれた。

 

私たちは、何を考えていてもいいと思う。

殺したいとか、めちゃくちゃにしたいとか、どんなに黒い感情や害を成す考えを持ったとしても、実行に移さなければ、それは思っていないことと同じだ。

そこに罪悪感を抱く必要はないと思う。だれも知る由もないことなのだから。

 

そう考えて初めて、

羨ましいと思う自分を認められるようになった。

長年の自分の嫌いなところを、やっと受け入れられるようになった気がする。

 

 

私はきっと、

昔の小さい頃の、ずっと一番でいたい私を引きずってる。

小さいころの私は、なんでもできて、何にでもなれた。

私は勉強も運動も音楽も書道も、なんでもよくできる方だったと思う。

家庭環境も良かったし、何よりも努力家だった。

才能なんてなかったけど、他の人より少し頑張れば1番になれたから。

でも、いつまでもそうじゃなかった。

年齢を重ねるほど様々な人と出会い、上には上がいることを知った。

それらを努力でなんとかしても、スマホやSNSが普及してから、この世界には比べるのさえ烏滸がましいくらいの天才がいることも知った。

 

私はそれでも比較してしまう。

この世の誰でさえ、負けるのが悔しいから。自分より上であることが許せないから。

表面上は理解してる。自分が想像を絶するような努力をしていて、生まれた環境も違って、元から持っている才能も違う。

でも心のどこかで、自分はあの人よりもできるはずという謎のプライド、自尊心が働く。

本当に心の底からくだらないと思うんだけど、26になった今でも治らない。

これはきっと、もう治せるものじゃないんだと思う。

 

けど、大丈夫。

私は、「すごいじゃん!」と言える。

自分が嫌いな自分を押し込めて、良い自分を演じられる。

そうなろうとしているだけで、こんな自分を認められた気がしたんだ。

成し得ない

最近、頭がおかしい。

目に入るもの全てが自分と比較対象のように感じて、その度に自分の無力さを思い知る。

好きだったYouTuberの動画も、見知らぬ誰かのツイッターのポストも、身近な人のインスタのストーリーも全部「この人は自分で行動してこんなすごいことを、影響力を持っているのに私は…」とばかり考える。

好きだった音楽もゲームも、楽しみが全て苦しい。

私は仕事しか出来なくなってしまった。

ここでいう出来るとは、有能とかしごできとかそう言う意味ではない。

1日の体力や気力を使い切ってしまうという可能の意味だ。

そして疲れを言い訳に何もしようとしない自分にも反吐が出る。

でも何も出来ない。

ぼーっと画面を眺めたり、なんとなくゲームをすることは出来る。

けど、それ以上の思考や挑戦がままならない。

手が動かないんだ。

このブログも、やっと手をつける気力が出てきて書いてる。

 

つくづく、なりたくない人間に近付いてるなぁと思う。

私は好きなことだけして、自分のためだけに、生きていたい。

今は、嫌いなことばかり、社会のために(お金は自分のためかもしれないけど)生きてるような気がする。

私には向いてない。

一度きりの人生、そんな時間無駄すぎる。

でもそれを考えなしに無碍にするには私はお人よしすぎる。そして無気力すぎる。

このまま都合の良い方に流されていってしまうに違いない。

 

前までは、ずっしり沈んで病んで死にたいと思ってたけど、

最近は、病んでなくても死にたいなって思う。

私はきっと何も成し得ない。

このままずっと、時間を浪費して、自我を削って生きるだけなら。

誰かと比べて、絶望の毎日が続くだけなら。

小さな幸せはあっても、そこに私の生きる意味はないと思う。

知らない

知らない方が幸せなことは

沢山あると思ってる。

全てを知ろうとしてしまえば、

途方も無い悪意と不安で傷だらけになるだろう。

大学の時心理学の授業で、「目の前の全ての事象をありのまま受け入れようとすると脳がパンクするから、人間は一つ一つの物事に枠組みや名前を設ける」と学んだ。

だから、世の中の全てを一つ一つ理解することは人間には不可能なんだ。

 

でも、それでいい。

知りたいは尽きないけど、

全てを知ることはできないし

知ったところで私に出来ることは何もない。

 

「知らない」は

自分が安心出来るものに囲まれて生きるための

貴重な言い訳であり、

私の世界には必要のないものの総称だ。

 

だれかの美的感覚もSNSの男女観も

あのビジネス書のいかにも正しい処世術も

全て知らなければ

何者も私を強制はできない。

 

知った上で悪意や誰かの正義に抵抗できるほど、私は強くない。

そんなこと承知の上で、私は幼稚で未熟な自分を忘れたくない。

だから、知らなくていいんだ。全部。