ずっと、醜い自分が嫌いだった。
何かを考え始めると、意味の無い羨望や妬みに歯止めがかからなくなってしまう。
「あの子の方が」とひとたび感じてしまえば、その人の嫌な面ばかり探してみたり、自分の方が優れてると下らないプライドで思い込むようにした。
多分、自分のプライドとか競争心やらなんやらで、他人と自分の区別が付かなくなってたんだと思う。
相手を認めることも、自分の価値もさっぱりわからなかった。
というか、それらと向き合うことから逃げた。
精神年齢がガキすぎて、冷静に向き合えなかった。
だから、私は考えることを辞めた。
考える葦という言葉があるけど、それに即して言えば、私は人間をやめた。
ペンを捨ててから、この世界の自由さに驚いた。
「考えなくていい」というのは、本当に楽だった。
辛いことや嫌なことがあったら、直ぐに思考をシャットダウンする。
好きな曲だけをひたすら弾き、歌い、食べたいものを食べる。それでもダメなら、寝て忘れる。
嫌なことから逃げるのは、思ってたよりもずっとずっと簡単だった。
だって、楽な方へ向かえばいいだけだから。
けど、その度に私の「できること」が減っていった。
これは辛いから考えない、それはしんどいからやらない、そうやって繰り返していると、残ったのは本当に好きなことだけだった。
なんだか、逆説的に自分が何も出来ないことを証明してしまったようで、とても虚しかった。
そして、このままじゃ選択肢を狭め、自分が生き辛いだけだと気づいてしまった。
世の中の人達は本当にすごいと思う。
辛いこと、大変なことに自ら挑戦して、諦めずに取り組んで、「できること」の選択肢を増やす。
その過程でどれだけの挫折や絶望、羨望、妬み、嫉妬を乗り越えなければならないんだろう。
自分の可能性や価値を高めるためとは言え、そんな苦しい思いをしたくないとは考えないのだろうか。
ましてややりたいからやるという人なんか、意味がわからない。
けど、そういう人がたくさんいることも知ってる。きっとそういう人が賢くて、世の中に必要とされるんだろうなとも思う。
考えることを一度放棄してしまった私は、ただただ尊敬してる。
私が全人類すごいよ、生きてるだけで頑張ってる、っていうのは、こういう意味だ。
辛いことと向き合わないなんて、不可能だから。
厳密に言うと可能だけど、世界と自分の溝を深めて、自分を余計に苦しめるだけだから。
今、私は再びペンと向き合ってる。
しょうがなく、だ。
どっちを選んでも苦しむしか道がないのなら、
「できること」を増やすためじゃなくて、
「できないこと」を嘆いて、苦しみを伝えるためにペンをとる。
私はそういうやつだ。
きっとそういう使命なんだろう。
疲れたら、また逃げれば良い。
それを繰り返して、生きていけば良い。
久しぶりに人間になった私の戯言。