日生ノ木日

私の全て。これは私がこの世に存在した証。

ワニとトラウマ

今流行りの100日後に死ぬワニってあんじゃん?作品自体にはそんなに興味無いんだけどさ(1日目から見てないしなんなら存在を知ったのも97日目ぐらいからだからね)。あれの考察いろいろ出てるけど、気になったのが「作者は自分の人生を作品に投影してる説(事故で友人を亡くした経験があるらしい)」。私こういうのがものすごく嫌いというか苦手なんだよね。もし仮に本当にそういう意図があったとしても、自分の人生に踏み込まれてるような感覚がして好きじゃない。もちろん人によってその辺の感覚は違うだろうから、こう思うのは私だけかもしれない。きちんと作品から自分の意図を汲み取ってもらえて嬉しいって感じる人もいると思うし、この作者もそうなのかもしれない。でももし私なら、感じ取れても黙ってて欲しいと思っちゃう。自分の考えや思いを伝えるのってすごい難しいことだし、ものすごい勇気がいる行為だと思う。自分の体験や人生に関することは特にそう。それが伝わったら奇跡だと思う。素敵だとも思う。でも、それをあからさまにされるのはなんか違う気がするんだよね...。

忘れられない思い出があってね。小学生の頃さ、卒業の前に作文を書いたんだけど、その作文のせいで先生から親に電話されたことがあるんだ。今の私とあんまり変わってなくて、こんな陰鬱なことをいつも考えてるような哲学(?)大好きマンだったんだけど、作文も大好きだったの。自分の思いを自由に制限なく書けるから。でも、ありのままに自分の心を具現化したことによって、先生に勘繰られて親に電話された。内容はよく覚えてないけど、確か遠回しに寂しいっていう感情を書いた文章だった気がする。「何か悩みがあるんじゃないか」って。私、その時、すっごい悔しかったしムカついた。そして恥ずかしかった。せっかく自分が自由になれる場所だったのに。口に出せない感情を吐き出せるところだったのに。なんなんだこいつらは。私のことを心配してくれてたのは、今なら理解出来る。でも、その頃から私は好んで文章を書かなくなった。というか、うまく書けなくなった。いかに他人に分からないように、自分を悟られないように書くかだけを意識するようになっちゃったから。そんなの1ミリも面白くないしね。

私、自分の感情を表現できることにわくわくしながら、どれだけ巧みに文章に感情を隠喩できるかに苦戦して、勇気をだして作文を出したはずだったんだよね。そう、汲み取ってもらえるだけで良かった。心の中で私のメッセージを受け取ってくれれば良かった。本来、作品ってそういうものでしょ?魂のやり取り。造り手は自分の思いを作品に込めて、見る人や読む人聞く人は個人の解釈でそれを汲み取ってくれればいい。正解はあるけどない。それでいいじゃん?だからなんか、失望した。自分の文才の無さにもね。単純明快な答えを与えるような作品だったみたいだからね。結局その作文は捨てて、運動会の取り留めもない思い出を書いたっけ。ほんと没個性。

この事件から、私は自分の思いを伝えるのが苦手になった気がする。書くこと、歌うこと、話すこと、どんな手段においても。悟られないように行動するようになった。でもこれは致命的だと思う。作品の創造において、自分の感情や思いを込めるのは一番大切なことだから。そうそう、私よくミュージシャンで曲を作ってる人が、「こういう思いを込めて作りました」とか「この時はこういうことを考えてたので」とかインタビューで言ってるの見るんだけど、あれ本当にすごいと思うんだよ。私出来ないもん。技術的なことや表現的なことはさておき、「こう言ったら私が何を考えてるかバレる」とか受け手のことばかり考えるから。自信を持って伝えたいことやその時の感情を宣言できるのってすごい。自分の思いを伝えたい気持ちはあるけど、怖い。伝えたいはずなのに、どうも逃げたくなる。あの時みたいに恥ずかしい思いをしたくないから。そして没個性。あーもう面白くない。

こんな私は変えなくちゃなんないと思う。専門学校に行ったら、こんなことも言ってられないだろう。克服しないとね。バイバイ、没個性。